2004-10-04 (Mon)

大阪のおかん

 前々から何とかしなくてはと思っていた痛みが激しい子供の頃のアルバム整理をはじめた。
ところがところがナカバヤシのフエルアルバム、写真がピタッと貼りついてしまっていてどうしても取れない、無理に剥がすと写真が破けてしまう(泣)。
ネットで対策を検索したらどうやらドライヤーで暖めると取れやすくなるらしいけど、こりゃ大事になると今日のところは諦めた。
 でも久しぶりに昔の懐かしい写真を眺めているとついつい時間が過ぎてしまったのだけど、その中の1枚、大阪城をバックに大阪に住んでいた叔母と従兄妹と一緒に写っている写真に眼が留まった。

 実は久しく行き来のなかった大阪の叔母は今年の5月に亡くなっている。数えで88歳の米寿、老衰死という考えようによっては幸せな最後だったと思う。
 今年の春先に体調を崩して入院したという知らせは受け取っていたが、その後回復したとの従兄妹からの電話で安心していたところだったから、まったく予期せぬ急な出来事だった。

 僕は父親を早くに亡くしていて母親も働いていたから、小学生だった子供の頃、夏休みになっても親と一緒に何処かに遊びに連れて行ってもらった記憶がほとんどない。その代わりだったのかもしれないけど、夏休みになると遊び相手になる同年代の従兄妹がいる母親の兄弟姉妹のいずれかの家に預けられて夏休みの何日かを過ごしていた。その年によって行き場所はさまざまだったけど、とりわけ多かったのが金沢と大阪の叔母の家だった。

 当時は新幹線もなかったから大阪も小学生には大旅行の時代で、リュックサックを背に東京駅で母親に一人で列車に乗せられ見送られる時はいつも緊張してなかなか慣れることができなかった。大阪まで7、8時間ぐらいはかかったのではないかとうろ覚えているけど、とにかく大阪駅にいつも迎えに来てくれている叔母と同い年の従妹の顔を見るとほっとしたことを思い出す。

 その頃、叔母は大阪城のすぐ近くの3部屋しかない狭い長屋式の文化住宅に親子6人で住んでいて、どちらかと言わなくても明らかに貧しい暮らし向きだったと思う。4畳半に敷き詰めた布団に子供たち4人と僕が寝て、「いいかげんにしなさい」と怒られるまで、わいわい、がやがや、ひそひそ、こそこそとなかなか寝つかれなかったことも今となって僕の素晴らしい思い出になっている。

 生活はきっと苦しかったにちがいないと思うけど叔母とその家族はとびっきり明るくて、いわゆる大阪弁のボケと突っ込み、軽妙洒脱な会話が行きかうさまを、自宅に居る時はいつも一人っきりの鍵っ子で静かに暮らしていた僕は眩しく眺めつつも楽しんでいたように思う。

 叔母も夫を手伝っての家業に忙しかったから、平日は従妹たちに連れられて大阪の下町を徘徊している毎日だったけど、叔母は、僕が滞在する時は必ず、最初の日曜日が来ると僕と子供たちを連れてミナミの繁華街にてっちりを食べに連れて行ってくれた。
 そんな時の叔母と従妹たちはひときわはしゃいでいて、もしかすると僕の来阪は、今の言葉でいえば外食するかっこうの口実になっていたのかもしれない。

 とにかく僕の大阪旅行はいつも家族の触れ合いの暖かさを感じる数少ない経験になった。きっと叔母は今も彼岸でしょうもないこと言いながら笑ってるんだろうなって僕は確信している。

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